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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第1節 午前中は晴れ [3]




 珍しい名字でもない。ただの他人だ。
 だが、もう一度会い、もっとじっくりと向かい合えば、あるいはあの二人の少年のどちらかに、遠い昔の面影を重ねる事ができるかもしれない。
 思わずそう期待してしまいそうになり、栄一郎は自嘲する。
「ただの他人だ」
 独り言のつもりだったが、意外にも背後から返事があった。
「誰がです?」
 振り返る先で、フンワリとボリュームを出した髪の毛が揺れた。
聖美(きよみ)さんか」
 霞流慎二の母、霞流聖美は名前を呼ばれ、ゆっくりと頭を下げた。
「別に立ち聞きをするつもりなんてありませんでしたのよ。もちろん、背後から忍び寄って何かしようなんて」
 その言葉に、栄一郎は声をあげて笑う。
「相手が聖美さんなら、驚かされるくらい構わんよ」
 ひとしきり笑い、車椅子を操作して向き直る。
「いつこっちに?」
「つい先ほど」
 そこで聖美は一度言葉を切り、躊躇うように視線を落す。
「本当は、お盆には戻るつもりだったのですが」
「どこに? ここにか? それとも知多に?」
「知多の方にも、もちろんこちらにも」
 知多という地名に聖美が一瞬目を泳がせ、その表情に栄一郎はフンッと鼻を鳴らす。
「構わんよ。この家など、どうせいつ来ても寂れた幽霊屋敷だ。聖美さんのような女性がわざわざ足を向けるような場所ではない。それに知多の方だって」
 栄一郎も聖美から視線を外し、背後にそびえる屋敷へ目をやる。
「行く必要はない。ワシも行かなかった」
「そうですか」
 聖美はただそれだけを答える。
 夏に京都で行われたSera・Kのパーティー。友人である小窪(こくぼ)青羅(せら)のサポート役として華々しく場を彩っていた彼女の姿しか知らない人間が今の聖美の姿を見たら、どう思うだろう?
 化粧も薄め。アクセサリーもほとんど身につけず、ダークグリーンのロング丈カーディガンを無造作に羽織る。ただ一つ、カーディガンの襟元を掴む左手の薬指。飾り気のない指輪が鈍く光る。
「どうせ行ったとて、雄一(ゆういち)の嫌味を聞かされるだけだぞ。ワシも聖美さんも」
 霞流雄一。栄一郎の息子にして聖美の夫。そして霞流慎二の父親。今は知多で、長男と一緒に仕事に励む。
「いらぬ騒動は起こすべきではない」
 そこでフーッと息を吐く。
「ワシに言わせれば、塁嗣(たかし)の方がちと気を使い過ぎじゃ。何もわざわざ顔など出さんでも」
 霞流塁嗣。
 栄一郎の孫。慎二の兄。聖美の息子。
「塁嗣が雄一に気を使う必要はない」
 霞流塁嗣は慎二の兄で霞流家の次男だが、父親であるはずの雄一とは血の繋がりがない。
「あんなに気を使って、あれもよう身が持つな」
「申し訳ありません」
 深々と頭を下げる聖美に一瞥を投げる。
「なぜ聖美さんが謝る?」
「悪いのは私です」
 秋風が流れる。足元の龍胆が揺れた。午睡から目覚めて、だがまだ寝ぼけているかのようなトロンとした揺らぎ。
「塁嗣や慎二をあんなふうにしてしまったのは、みんな私です。特に慎二の事では、お父様にも本当にご迷惑をお掛けしてしまって。雄一さんだって」
「悪いのは雄一だ」
 聖美の言葉を遮るように、栄一郎は少し声を大きくした。
「聖美さんじゃない。それは前にも言った」
「でも」
「悪いのは聖美さんじゃない。こちらのバカ息子だ。あいつがバカで、それを育てたワシがマヌケじゃったのだ」







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